2016-06-10 たおやかな風景 ⑲ 「紫草」 奈良新聞連載記事

「紫草」
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王 万葉集 巻1-20)
「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」(大海人皇子 万葉集 巻1-21)
一面を黄金に染める麦畑のところどころで、早苗田が白い雲を泳がせ始めた。麦秋の近江蒲生野の里に万葉の風が吹き渡る。
飛鳥から近江に都を遷した翌年の5月5日、天智天皇は、王族、廷臣、女官総出でここ蒲生野の里に遊狩(みかり)にやってきた。男たちは野に鹿を追い、女たちは「紫草」(むらさき)などの薬草を摘んで一日を楽しんだという。その中には、天智天皇の妃である額田王、そして天智天皇の弟で額田王の元夫である大海人皇子もいた。
「そんなに手を振ったら人が見ていますよ」と気が気ではない額田王に「人妻になってしまったお前だからよけいに恋しいのだよ」と大海人皇子。万葉集でもひときわ艶めく相聞歌、全くどきどきするやりとりであるが、宴会の席で戯れに詠まれた歌であるというのが大方の解釈である。しかし、真意のほどは当のご両人にしかわからない。それにしても、時の最高権力者である夫を前にして、元夫との微妙な関係をこれほど瑞々しくさらりと歌い上げてしまう額田王、その大人の女っぷりには舌を巻いてしまう。
五月の末にはまだ花をつけていなかった蒲生野の「紫草」も、今頃は愛らしい花を咲かせていることだろう。「紫草」は真白いその花の下に、染料や生薬の元となる豊かな紫色の根を持ち、古代より貴重なものとしてとても大切にされてきた。
紫色が、ただ美しいだけではない特別な存在に仕立て上げられたその裏には、この色が権力の象徴であったと言う歴史が存在する。聖徳太子が制定した冠位十二階の最上位は深紫(こいむらさき)であり、それは紫式部の文学の根底を流れ、清少納言は「すべて、なにもなにも、紫なるものは、めでたくこそあれ。花も、糸も、紙も」と言い切った。そしてそれは徳川時代の江戸紫へと引き継がれてゆく。
紫色を重んじたのは日本ばかりではない。古代中国やローマの時代には、皇帝以外の者は身に纏うことが許されない禁色であった。かのクレオパトラにいたっては、紫色を愛するあまり、軍船の帆まで貝紫で染め尽くし外国船を圧倒したという。女たちにとっても、紫という色は古来より憧れの色であった。
類まれなる才能、美貌、そして妖艶な魅力を持ち合わせたふたりの女性、額田王とクレオパトラ。彼女たちに思いを馳せると、なぜかこの曲が頭を霞める。『亡き女王のパヴァーヌ』、フランスの作曲家ラヴェルがルーブル美術館を訪れた際、ベラスケスの描くマルガリータ王女の絵からインスピレーションを得て作曲したと言われる曲である。
思わせぶりな標題と導入部の恍惚とした旋律は、聴く者をたちまちノスタルジックな世界へと惹き込んでしまう。ぼんやりとした曖昧な和声に浮遊するように流れていく旋律の奥からは、ほのかな薫物(たきもの)の香が漂い、女たちの衣擦れの音が聞こえてくるようである。
当のラヴェルはあまりお気に入りではなかったらしいが、この曲は出版するや否や大人気となり、ラヴェルはたちまち人気作曲家の仲間入りをすることになる。特に女性への人気は絶大で、その傾向は100年経った今も変わらないと言うから、この曲はどこか紫めいているのかもしれない。
さて大和にも古の狩猟地がある。『日本書紀』によると、611年5月5日、推古天皇が大勢の官を率いて菟田野で薬草狩りをされたという。男の狩りの目的は強壮剤とされた鹿茸(ろくじょう)という若い鹿の角、女たちは菖蒲や蓬など、独特の香りをもつ薬草摘みを楽しんだ。このころから5月5日は「薬日」とされ、薬狩りは宮中の年中行事の一つになった。
当時の5月5日は今の暦の6月10日ごろのこと、庭の紫陽花が日ごとにその紫を色濃くするころである。

この季節、雨女必携の傘もまた、紫。