2017-01-20 たおやかな風景 ㉞ 赤い実と赤い鳥 奈良新聞連載記事

「赤い実と赤い鳥」
寒さの中で点、点と赤い実が目をひく。
「難を転ずる」という南天、いかにも金運が上がりそうな千両、万両などはお正月には付き物の赤い実である。千両、万両の隣に一両があればさらに良いそうだ。一両というのも赤い実をつける常緑の低木で、正式にはアリドオシと呼ばれている。つまり「千両、万両、有り通し」というわけだ。
普段はその存在すら忘れられているこれらの木も、赤い実を結ぶこの時期には、何だかんだと縁起をかつがれてはもてはやされる。
しかし、木は何も人間のために赤い実を結ぶわけではない。鳥たちの目を惹くのが一番の目的なのだ。実は鳥たちに食べられ、あちらこちらに運ばれ、糞と一緒に撒き落とされる。そして新しい地で根を下ろす。自分で移動することのできない木たちが、子孫を拡げ増やすための知恵、自然の仕掛けなのだ。
幼い頃、赤い鳥は赤い実を食べて赤くなるのだと思っていた。そんな馬鹿なことがあるわけがないと大人は理屈を並べるだろう。しかし、大人が鳥の何を知っているというのだろう。自然の仕掛けの何を知っているというのだろう。
赤い実の赤色を色覚できるのは鳥類と霊長類だけで、実を噛み砕いて食べてしまう他の昆虫などには色覚できないということ、赤い実は鳥のお腹を経ることで、より発芽しやすくなるということ、鳥たちは次の世代の森林を作ることを助けているということ、人知では測り知れない、神業的な自然の仕掛けの何を知っているというのだろう。
文学者鈴木三重吉は、愛娘すずへの思いから、子どもにもっと質の高い童話や童謡を与えたいと、芸術として真価ある童話や童謡を創作し紹介していくための子ども向け文芸雑誌「赤い鳥」を自ら発刊した。そしてその童謡部門の担当を北原白秋に依頼した。白秋が小田原に居を移した1918年(大正7年)、白秋34歳の時のことである。
大正ロマン、大正デモクラシーと呼ばれるころの鷹揚な時代の中で、子どもの純性を育むための香気高い芸術性豊かな優れた作品が次々と生まれていった。
「赤い鳥」創刊号に掲載された白秋の『赤い鳥小鳥』は、最高の技法で近代童謡に昇華し得た芸術童謡であると賞賛され、白秋自身も「私の童謡の本源である」と語る、まさに「赤い鳥」の申し子ともいうべき童謡である。
小田原の伝肇寺の一室の間借りからスタートした白秋の赤貧の生活も、「赤い鳥」のお陰で暮らし向きが良くなり、翌年には、その境内に茅葺屋根に藁壁という庵のような風情ある家を建てた。入り口が鼻、その両側の小窓が目、まるでとぼけた木兎(みみずく)のように見えるその家を、白秋は「木兎の家」と呼んでいた。そしてその翌年には、その隣に赤い屋根の洋館を建てた。
白秋が生涯に創作した1200編の童謡作品の半数が、この小田原時代につくられている。『赤い鳥小鳥』『雨ふり』『あわて床屋』『かやの木山の』『からたちの花』『この道』『砂山』『ペチカ』『待ちぼうけ』などの名作が次々と世に送り出されていった。創作活動においても、また私生活においても、小田原で過ごした8年間は、白秋の生涯の中で最も生気みなぎる幸せな時代であった。
小田原の伝肇寺を訪ねた。小田原駅で箱根登山鉄道に乗り換え、板橋駅で下車。入り組んだ住宅街の一角に佇む伝肇寺に到着すると、狛犬ならぬ狛木兎のお出迎えである。他にもたくさんの木兎たちが年の瀬の訪問者を温かく迎えてくれたが、「木兎の家」も、赤い屋根の洋館も跡形もない。白秋が心を寄せた、かやの木と、『赤い鳥小鳥』の石碑、そして「木兎の家」の跡地に建てられた「みみずく幼稚園」が僅かなよすがである。
寂しい想いの中で嬉しいことを耳にした。「みみずく幼稚園」の園歌は『赤い鳥小鳥』であるという。
百年経った今も、子どもたちが澄んだ心で、白秋の魂を歌い継いでいる。
〽赤い鳥 小鳥
なぜなぜ赤い
赤い実を食べた