2017-01-27 たおやかな風景 ㉞ 用の美 奈良新聞連載記事

「用の美」

 

冬のやわらかい風に誘われて、座喜味城跡近く、緑濃い山間の里に「やちむん」を訪ねた。
「やちむん」とは沖縄の言葉で「焼き物」のこと。たくさんの陶芸家たちが集まるこの里には、3つの登り窯、15の工房、そしてギャラリーや売店などが点在している。
「やちむん」は、島独特の絵柄や色合いがどれもよく似ていて一見みな同じように見えるのだが、よく見れば、違う手、違う筆の動きが見え隠れし、さらに人間の力では制御することができない自然の力が、一つひとつの器に個性を生み出している。
シンプルな形、おおらかな色柄、ぽってりとした厚み、素朴で実直な器たちは、日々の暮らしの中で使い込まれるほどに美しさを増してゆくのだろう。
沖縄の土で、沖縄の風土に合わせ、長い歴史と日常の暮らしの中から生まれた器たちは、どれも堂々とした「用の美」を漂わせている。
「やちむん」を手にした瞬間、毎日のように我が家の食卓に並ぶ下田焼のことを思い出した。
山並みの続く近江の湖南にひっそりと佇む伝統工芸館、近江下田焼の陶房はその中にある。折に触れその陶房を訪れては、一つまた一つと陶器を買い揃えることが楽しみのひとつである。
陶房の隣の小さな売店では、お馴染みの顔ぶれの陶器たちが「ごきげんさん」といつも気さくに迎えてくれる。毎日使う日用雑器だけを並べるのに大きなスペースはいらない。
江戸時代からの歴史を持つ、「呉須」と呼ばれる藍色の色合いが特徴の近江下田焼は、今はたった一人の職人の手によって受け継がれている。
どんなお料理にも合う、使い勝手の良い素朴で飾らない形や柄は、長い年月を経ても少しも変わらない。何もかもが目まぐるしく変化していく中で、今、変わらないモノの力の凄さに圧倒される。その様が、繰り返される大自然の巡りに似ているからだろうか。
長い歴史がありながら、今様の新しさも感じるのは、作り手の「用の美」の意識が少しもぶれないからだろう。
器でも何でも、モノは用いられるほどにその価値を高めていく。使うほどに手に馴染み、あたたかみを帯び、美しさを増していく。きっと「用の美」とは、そんな美しさのことを言うのだろう。
モノの価値は、新しさ、値段、ましてやブランド名などで決まるものではない。一つ間違えると、家の中も心の中も不用なモノで溢れ返り、どんどん暮らしにくくなってくる。
古代中国に、鐘に柄がついた甬鐘(ようしょう)という楽器があった。「用」という漢字は、この甬鐘の象形なのだそうだ。甬鐘は柄をもって持ち上げて使うことから「取り上げる」「もちいる」を意味する「用」という漢字が成り立ったのだという。
「美」という漢字は「羊」と「大」が組み合わされている。
古代より神聖な儀式や裁判に使われたヒツジは、とても大切にされ、またその肉も、皮、毛、乳、内臓も、捨てるところがないほど人の役に立ってきた動物である。そのヒツジの象形から生まれた「羊」という字は、「役に立つ」「善い」という意味をもっている。
「大きい羊」と書いて「美」。私たちは「美しい」という言葉を少々軽く扱い過ぎているのかもしれない。
仕事が一段落ついて、年末にできなかった片付けをやり始めた。
断捨離という言葉が少々乱暴な気がして馴染めない私は、「用の美」という言葉を心に片付けを進めることにしている。毎日のように用いる、心を満たしてくれるモノが、私の生活の主役たちだ。
今日は、薬缶からスタートして、鍋、調理器具、食器などの台所のモノ、洗面所のモノ、皮の手帳カバー、ペンケース、万年筆など仕事で使うモノ、長い時を共に暮らしている愛おしいモノたちを、手にしたモノから順番に丁寧に磨いていった。
今、私の手元を照らしている電気スタンドは、学生の頃から使っているものである。何十年も傍らにいて、きっと私のことを何もかもお見通しなのだろう。
これを最後に磨いて、本日は消灯。