2017-07-28 たおやかな風景 ㊻ 朝顔のドラマ 奈良新聞連載記事

朝顔のドラマ

 

梅雨明けの空に、学校帰りの小学生たちの声が弾んでいる。明日から夏休みか…。私は30年近くも昔の夏休みのことを思い出していた。
あの日も一学期の終業式の日だった。2年生ぐらいだったろうか、息子が朝顔の植木鉢を抱えて帰って来た。
毎朝、開花した花を数え日誌を付ける、その夏休みの宿題「朝顔の観察」のバトンが、ほどなく母にまわってきた。
忙しい朝の余計な仕事に最初は苛立っていたが、一週間もすると、朝15分の朝顔の連続ドラマが待ち遠しくなってくる。一粒の種を巡る生命の神秘、朝顔のドキュメンタリードラマに次第に惹き込まれていった。
図書館にも足を運んだ。翌朝に開花を控えた蕾の中では、めしべの柱頭に花粉をこすりつけるようにおしべが伸びる。受粉を終えると、キリリ、キリリとゆっくりそのネジをほどき、日没から約10時間後の黎明の空に、蝶のような色鮮やか花弁を広げる。
花の後に出現する緑の実は、生まれたての惑星のようである。無数の惑星は、次第にふくらみ、色を変えながら、その中にまた新しい生命を育む。
その夏、私は朝顔のドラマの中に、壮大な宇宙の縮図を見た気がした。

数日前に目にした色褪せた朝顔の絵が脳裏から離れない。花びらが茶色く変色した一輪の朝顔を囲むように四つの俳句が書かれている。その一つがこれである。
「朝顔ヤ絵ニカクウチニ萎レケリ」
正岡子規が、明治34年9月2日に筆を起こし、翌年9月3日、亡くなる半月前まで絵日記のように毎日綴った『仰臥漫録』の明治34年9月13日付の頁である。
親しい人にも見せなかったこの病床の手記は、死を間近に控えた子規の内面、不屈の精神を見せつけている。
この頃、子規は寝たきりで、自分で寝返りすら打てなかった。肺は殆ど空洞、体中が腐り所々穴があき、襲いかかる激痛に絶叫、号泣、時には失神、精神錯乱状態に陥ったという。
そんな凄まじい日々の中で、誰が訪ねて来たか、何を話したか、何を食べたかなどを、絵と言葉を交差させながら綴っている。食事の記録に見える、病人とは思えない食欲には仰天する。病床から身動きの取れなかった子規にとって、食事は最大の楽しみ、生きている証であったのだろう。
親友の画家・中村不折からもらった絵の具で描いたという写生画はどれも、身動きもできない闘病地獄の中から生まれたものとは思えない。
布団一枚、それが子規に許された世界であった。その小さな世界の中で、子規は亡くなる直前まで、自分の表現を追求し、生きることを楽しむことを辞めなかった。
「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外まで足を延ばして体をくつろぐ事もできない…」(『病牀六尺』より)
正岡子規生誕150年のこの年に、『仰臥漫録』『病牀六尺』この二冊に触れる機会を与えられた。布団一枚の深遠な宇宙に圧倒され、未だその感動から冷めやらない。
明治35年9月17日享年34歳、子規は大勢の仲間や門下生に見送られ旅立った。23600句という俳句、随筆や写生文などは、日本の近代文学に大きな影響を与え、それは後進へと受け継がれ、現代にまで繋がっている。
ところで、日清戦争従軍中に喀血した子規は、故郷の松山で静養の後、明治28年10月、帰京の際に奈良に立ち寄っている。そして、法隆寺の茶店でこの句を詠んだ。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
十七文字に宿るとてつもない言葉の力。法隆寺の名を広めたのも、柿を奈良の名産品に仕立て上げたのも、この俳句なのではないだろうか。子規は、筆一本で行基さんと互角の奈良貢献をした人…と私は秘かに思っている。

庭のあちこちから朝顔がハート型の可愛いらしい双葉がのぞかせた。種を撒き忘れたことを後悔していた矢先のことである。種は私のようにうっかり忘れたりはしなかった。
今朝、蔓を伸ばし始めたその芽を掘り起こし、植木鉢に移してやった。

さあ、今年も朝顔の連続ドラマの始まりだ。