2017-08-11 たおやかな風景 ㊼ 山は動ぜず 奈良新聞連載記事

山は動ぜず

 

青々と広がる田園風景の向こうに、筑波山のお出迎えである。筑波山神社に向かって左が男体山、右が女体山、山頂が二つに分かれたこの山のシルエットが、大和盆地を見下ろす二上山に重なるからだろうか、その稜線が、幼い頃に見た近江富士・三上山に似ているからだろうか、この山にはどこか懐かしさを感じる。
歌川広重は「名所江戸百景」(1858年)119枚の浮世絵の中に、筑波山をたくさん描いている。それはどれも今と変わらぬ形で、変わらぬ所に鎮座している。当たり前のことである。しかし、手前の江戸の風情の豹変ぶりを見るにつけ、全く動じることのない筑波山に、畏敬の念を抱かないではいられない。
この日、筑波山南麓に広がる研究学園都市に、国土地理院を訪ねた。伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」を食い入るように見ている私に、「山が大切な役割を果たしたのでしょうね。何しろ山は動きませんから」研究員の方が話しかけてこられた。確かに、山々の頂からは無数の線が引かれ、小さな数字や文字が書き込まれている。
忠敬は55歳(1800年)にして江戸を出発し、17年かけて全国の海岸線を測量して歩いた。そうして、初めて国土の姿を明らかにしたものが「大日本沿海輿地全図」で、それは現在の地図とほぼ重なり合うというのだから驚きである。

753年、坊津町秋目浦(鹿児島県)に1隻の船が難破寸前の状態で漂着した。そしてその船から1人の盲目の僧侶がお供の者に手を取られながら浜辺へと降り立った。その名は鑑真、唐において一・二を争う高僧であった。
そのころ唐王朝は、高僧の国外流出を防ぐために厳しい規制を敷いていたが、大和朝廷の度重なる要請に鑑真は意を決し、日本への密航を企てた。満足な海図や羅針盤など無かった時代のことである。56歳の僧は、波風まかせの小型帆船で日本への航海に挑んだ。
密告、暴風雨などに阻まれること5回、そして6回目、沖縄島を経て屋久島を出たとき、またしても暴風雨に襲われる。その時のことが『過海大師東夷伝』にこう記されている。
「風雨大いに発し、四方を知らず。午時、浪上に山頂を見る」
航海の目印であった開聞岳の山頂が波間に姿を現したのだ。
1回目の失敗から10年目、ついに鑑真は悲願の日本へ上陸、さらに2ヶ月という月日をかけて大和朝廷に入った。志の高い高僧の来日により、乱れ切った日本の仏教界は正しい道へと導かれていったのだ。
開聞岳の「かいもん」は「海門」に通じると言われ、太古の昔より薩摩半島の南端に在り、今も海の旅人たちの大切な道標となっている。

大和の国の学才ある青年・阿倍仲麻呂が16歳で唐に留学生として渡ったのは、鑑真の来日より更に遡る717年のことである。
唐では玄宗皇帝に仕え、李白などの著名人と交わる活躍ぶりであったが、51歳の時、皇帝に帰国願を出して帰路につくことにした。しかし、途中嵐に遭い、安南に漂着。仲麻呂は再び長安に戻り、そのまま祖国の土を踏むことなく、異国の地でその生涯を終えた。
仲麻呂は、唐の空に輝く月に、春日の三笠山にかかる月を想い、故郷を懐かしんだ。
「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」

生駒山の裾野から信貴山麓、大和盆地の淵を辿るように走る近鉄生駒線。ローカル線の車窓から見る山の風景を楽しみに、久しぶりにコトコトと王寺に向かった。
ところが、次々と立ちはだかる建物で山が思うように見えない。首を伸ばして頑張っていたが、ついに席を立った。大和盆地を抱く山々も、遠く離れないと見えなくなってしまったようだ。

「あれが耳成山で畝傍山、向こうが香久山。それが葛城山で、これが二上山。あっちが信貴山でその向こうが生駒山」上牧町のマンションの10階に住む友は、次々と山を指さしながら、誇らしげに山の名前を並べた。不動産屋さんにこの部屋に案内されたとき、この風景を見て即決したそうだ、「ここ買います」と。

そりゃ即決だろう。毎日、額田王きどりで暮らせるのだもの。