2017-09-22 たおやかな風景 ㊿ 間の遊び 奈良新聞連載記事

間の遊び

 

暑い盛りの活動を終え、葉の緑が徐々に薄らぎ始めた。昼間、田んぼの脇道で、稲たちの安堵のため息を聴いたような気がした。緑から黄金に色を移すまでの束の間、稲たちもほっと一息ついているのだろう。雀たちも、忙しい季節を前に、仲間たちと電線で羽を休ませている。
夏と秋の狭間に、夏でも秋でもない、一瞬、時の流れが止まったような「間」の季節が存在するように思う。

北海道で教師をしている友人が送ってくれた画像が気になって、今ごろまた見ている。広大な北の大地が見せる地平線は何度見ても圧巻…いや、違う。そうか「秋起こし」だ。9月の初め、北の大地はすでに冬支度の季節を迎えていたのだ。
「トラクターが土を起こし、土の匂い」
画像に添えられている友人の言葉は、確かに土の香りがする。一筆の便りからは、力強い『土の歌』(大木敦夫 作詞/佐藤眞 作曲)が聴こえてくる。最終章の「大地讃頌」へと誘う、土への感謝の念に満ち溢れた、あの壮大な合唱曲が流れている。

「これって、秋起こし?」何とも間の悪い反応である。やはり秋耕、北海道では「秋起こし」と呼ばれる農作業の風景であった。
お詫びの想いも込めて(それを読まれないよう注意深く)、「秋起こし」について教えて欲しいと申し出た。
「よい土壌(人間が農業のために整えた環境)とは、個体(土の粒子)と液体(根が吸い上げる水分)、気体(空気、土中の空間)のバランスが保たれている状態。大規模な機械化農業で、畑の表面を重機が通ると、その重圧で畑が踏みつけられて、返って良くないと言われ…」予想外の展開、難易度が高い。
「土中の水分について、雑巾を例えに説明すると…」さすが先生。頼りない反応に、生徒のレベルを読んできた。少しの間メールが途絶えたかと思うと、今度は小学生の社会の授業で配られるような、挿絵付きの手書きプリントの画像が送られてきた。このわずかの合間にこれを書いたのだろうか。ペン先をインクに浸けている絵の横には「ここに隙間があるからインクを吸い上げる」とある。矢印が「ここ」と差しているのは、スリットと呼ばれるペン先の隙間。可愛らしいトラクターが、畑に重圧をかけながらぽこぽこと走っている。手間を惜しまない、友人の温かい人柄が垣間見える。
「耕すことで土壌の中に植物の生育に必要な適度な隙間を作り、健全な地下社会を導くきっかけを作る。秋起こしの効果の究極は適度な隙間作り。大切なのは隙間!」長時間にわたる「秋起こし」の授業は、こう締めくくられた。居間の時計の針は、すでに深夜12時を回っていた。

さて、ここまでに「間」、そして「間」のつく単語を、私は何回使っただろう。意識すればまだまだ使うことができる。日本語は「間」だらけなのだ。日本人にとっていかに「間」が重要か、それは、「間抜け」「間違い」「間が悪い」「間延び」「鈍間」こんな言葉が教えてくれる。

西洋音楽では、音が鳴っていないところは休符、即ち「休み」という形で表現される。しかし、能や雅楽など日本の伝統音楽では、音が鳴っていないところでも決して「休み」ではない。そこでは無音が奏でられている。一瞬、音が鳴り止む、その「間」の取り方が悪いと「間が悪い」ということになる。言葉のないところに言葉が感じられないと、「行間が読めない」「空気が読めない」などと言われる。
書や山水画の余白も、枯山水の白砂の空間も同じ。一見何もない「間」の部分がむしろ大切、日本人のこの「間」の概念こそが「和風」なのかもしれない。
あえて鳴らさない、あえて書かない、あえて置かない、あえて言わないことで生まれる「間」、そこでは一体何が起こっているのだろう。なぜわざわざハードルを上げるのか、なぜそれを越えられるのか、我々の中に脈々と受け継がれている「間」の哲学のことを改めて想う。
「間の遊び」(あいのすさび)、読むのも難しいこの古い日本語も、何となくわかる自分がいる。

 

※奈良新聞にて連載中の「たおやかな風景」が書籍化され、奈良新聞社より出版されました。第1話から第39話までが収められています。北井勲さんの素晴らしい写真と共に是非とも手に取ってご覧ください。全国の書店、ネット書店から購入していただけます。