2018-03-23 たおやかな風景 62 分かれ道で 奈良新聞連載記事 

分かれ道で

 

匂やかな梅の花の間を、ミツバチたちが忙しそうに飛び交っている。彼らもまた、この地に梅林が戻って来たことを喜んでいるのだろう。
大阪から暗峠を越えて奈良に入る街道は、奈良の時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置されたもので、千年に渡り、この街道を通って多くの人々が奈良と大阪を行き来してきた。
大阪から峠を越えて街道を下ってくると、「左ならいせ(奈良伊勢)、右かふりやま(郡山)」と刻まれた古びた道標の立つ分かれ道に出くわす。この辻に建つ茅葺母屋に桟瓦葺を組み合わせた屋根を持つ大和棟の民家は、江戸後期に建てられた宿場建築で、ここが大和郡山との分岐点になることから、追分の本陣と呼ばれてきた。
急峻な峠道を越え、この追分の地に辿り着いた旅人たちは、広がる視界の先の南都の風景に安堵したことだろう。今もこの高台に立つと、はるかに若草山、そして古社寺が点在する奈良市街を一望することができる。
3月には、梅の花に彩られる風光明媚なこの追分の地を訪れることが長年の楽しみだった。しかし、7年ほど前になるだろうか、なだらかな斜面に広げられた紅白色とりどりの梅の絨毯を見たのが最後、その翌年には見るも無残な姿に変わり果ててしまっていた。
突然の土壌の悪化により、約4000本あった梅の木のほとんどが枯死し70本にまで減少、県内でも屈指の梅の名所であった追分梅林は閉園を余儀なくされた。
はるか東方の山々が描く稜線も、その懐に抱かれる奈良盆地も、遠く見渡す風景は千年の時を経ても変わっていないというのに、すぐ目の前に一瞬にして豹変した風景があった。
土壌の悪化?一体何があったというのか。もしこれが梅の木ではなく人間だったら、考えただけで身震いがする。

かろうじて生き残った70本の古木たちが見守る谷間の斜面では、今、梅の若木たちが元気に花を咲かせている。追分の地に梅林が息を吹き返したのだ。
梅林の復興に乗り出したのは、「SPSラボ若年認知症サポートセンターきずなや」の人たちだ。「きずなや」の若い人たちが、若年性認知症の人たちと地域の人々との架け橋となり、荒れ果てた広大な土地の雑草を刈り、土壌を改善し、そこに一本ずつ梅の苗木を植樹していった。約500本の梅の木がこの地にしっかりと根を下ろし、長らく閉園されていた梅林が、観梅会が開けるぐらいまでの復興を見せている。
「梅の木が枯死したのは土壌の悪化だけが原因ではありません。梅の老木化、梅の木の世話する人たちの高齢化も大きな要因です」こう語るのは「きずなや」の代表で、奈良追分協議会の代表理事である若野達也さん。他にも、若くして認知症を発症した人たちを支えるところ、居場所が無いことなど、若野さんの梅林の衰退と復興のストーリーの中には、この社会が抱える深刻な問題が幾つも潜んでいた。
わたしたちは、より良い暮らしを目指して一生懸命頑張ってきた。果たしてこの「より良い」のゴールはどこなのか。わたしたちはこれからどこへ向かって歩んで行けばよいのだろう。今、わたしたちは分かれ道に立たされているのかもしれない。
花から花へと目まぐるしく飛び回るミツバチたちの様子を眺めながら、そんなことを考えていた。

花の色がさっきよりも濃くなったような気がするのは、日が傾いてきたせいだろうか。
白梅の下のベンチに腰掛けるわたしに、ふいに風がドビュッシーの『美しき夕暮れ』運んできた。生温かい馥郁とした香りに溶け込んで、「薔薇色に染まる川もいつか海に去ってしまうように、われわれもいつか墓場へと去る。命に終わりがあるからこそ今美しく輝くのだ」と、わたしの心の中に忍び込んでくる。
夕暮れどきの美しい情景と虚しさが混在する、この歌のアンニュイな世界に引きずり込まれるような夕暮れである。
今から100年前の3月25日、55歳のドビュッシーは静かに墓場へと去って行った。音楽の中に命の輝きを刻んで。