2018-05-11 たおやかな風景 65 苔むす 奈良新聞連載記事

苔むす

 

奈良時代の由緒伝承を今に伝える寺院が、わが町二名にもその法灯をひっそりと灯し続けている。
海瀧山王龍寺、聖武天皇の勅願による古刹であるという。その山門が切り取る深山幽谷の画は、夕刻近くともなると、入り慣れた入り口とはいえ、足を踏み入れるのにふとためらってしまう。
今の本堂は、江戸時代になってから黄檗宗の禅寺として建てられたもの。ここに心惹かれるのは、昔、黄檗山万福寺のそばの小学校に通っていたせいだろうか、自宅から王龍寺への道が散歩道となって久しい。
コジイなどの照葉樹の自然林の中を、湧水の瀬音、野鳥のさえずりを耳に約300mほどの石段の道を上り詰めると、青紅葉の枝の向こうに寂びた本堂が見えて来る。
堂内には、ご本尊である十一面観音像が花崗岩の大きな岩に彫りこまれている。普段は締まっている扉の中を見学させていただいた時のこと、蝋燭の灯と小窓から差す自然光が交差する中に佇んでおられるその尊いお姿に、思わず手を合わせたものだ。南北朝時代に彫られたというこの磨崖仏は、歴史的に価値が高いものであるという。
しかし、私がここへ来る一番の目的は、観音様には申し訳ないが、本堂に至るまでの森の中の苔むした石段の道である。
王龍寺の森を取り巻く絵に描いたような美しい風景は、実はゴルフ場。つまり人の手が入った風景である。人の手から免れた祈りの森は、開発の進むこの地に、一粒の真珠のように、あるべき自然の姿を残している。
往時の寺勢はかなり盛大であったというが、今はここへ来て人と出会うことは滅多にない。これがまた幸いして、見せるための苔の風景ではなく、はるかな時の中で自然が織りなした苔むした風景が、今も静かに息づいている。

「こけ」の語源は「木毛(こけ)」、つまり「木に生える毛のようなもの」。「むす」は「生(む)す」で、生命の誕生という意味を持っている。生まれた男は「むす・こ」、生まれた女は「むす・め」というわけだ。
「苔むす」という言葉は、単に「苔が生える」というにとどまらず、「生む」こと、つまり連綿と受け継がれる生命、未来永劫に発展し続けるという深い意味をもっている。
「A rolling stone gathers no moss」という英語の慣用句を、「転がる石のように活動を続けている人は古びることはない」と解釈するのは欧米。「転石苔を生ぜず」、つまり「転がる石のようでは成果は出ない、腰を据えて一つのことをやり通して初めて成果は出る」と解釈するのは日本人だ。
不動の岩に苔むすことを生々発展の証とする日本人の国民性、感性、それを何より象徴しているのが『君が代』である。ごく短い言葉の中に、簡明に日本人の感性を謳うこの歌は、間違いなく日本の国の歌である。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで

「さざれ石」(小石)が集まり「巌」(大きな岩)となり、そこに「苔の生すまで」という、自然の営みの中でも特にスパンの長いものを例えに、永続性の価値を表現しようとするこの感性こそが、日本人のDNAに埋め込まれた自然感、美的感覚なのだろう。

今日はルーペと図鑑持参。王龍寺を抱く森の苔を研究しようかという意気込みである。
さっそく石段の脇に薄紫の小花を咲かせる苔の群生を発見。勇んで近づいて見るも、他の木が落とした花びらを乗せているだけ。
一体何年経てばこんなに太くなるのか、藤の蔓が大蛇のごとく木に巻き付いている。蔓は最初につかまった木を倒し、隣の木に乗り換えてさらに上へ上へと這い上がり、陽に揺られ悠々と花房を咲かせている。
結局、今回の成果は、どの世界にもうまいこと生きていくやつがいるということ、そしてもう蚊が飛んでいるということが分かったこと。
苔の研究、やる気だけは満々であるが、問題は苔が最も美しい時期と、我が最大の敵である蚊の季節とがぴったりと重なり合うということだ。
「転石苔を生ぜず」とはいかなさそうだ、苔の研究。