2018-06-22 たおやかな風景 68 きっと明日は雨 奈良新聞連載記事

きっと明日は雨

田んぼの脇道で一匹の雨蛙と目が合った。じっとこちらを見ているが逃げる様子もない。葉っぱに擬態して隠れているつもりだろうが、雨蛙、残念ながら丸見えだ。なぜなら、おまえの体はピカピカだ。
「青蛙おのれもペンキ塗りたてか」
とっさに芥川龍之介の俳句を思い出した。しっぽ取れたてのピカピカの一年生、うっかり触ると手にべっとりペンキがつきそうだ。
青トカゲに「ペンキ塗りたてご用心」と痛快なニックネームをつけたのは、フランスのジュール・ボナール。芥川先生、同時代を生きる海の向こうの小説家の作品もちゃんと読んでおられたとは、さすがである。この「青トカゲ」の行を踏まえて、「青蛙おのれも」なのだ。
機知にとんだ簡潔な文体で、様々な動物の生態を描いた短文集『博物誌』、これには芥川先生も大いに刺激を受けられたのだろう。蝶はと言えば、「二つ折りの恋文が花の番地を捜している」。愛するものへの眼差し、そして意表を突く仕掛けに舌を打つ。
舌を打つといえばカエルの鳴き声。ちなみにカエルは雄しか鳴かないそうだ。彼らは鳴嚢という喉の袋に声を共鳴させて愛の歌を絶唱する。小さな体から田んぼ一面に響き渡るあの大音量、オペラ歌手も真っ青だ。私も喉にあの袋が欲しい。
この分だと明日は雨になるだろう。雨蛙が盛んに鳴く日の次の日は雨、意外と当たる天気予報だ。

「横板に雨だれ」、こんな諺をご存じだろうか。弁舌が達者でよどみなく流れるようにしゃべる様を「立て板に水」。「横板に雨だれ」はその反対で、詰まりながらたどたどしくしゃべる様。「立て板に水」が残留、イケてない「横板に雨だれ」の方はお役御免。「横板に雨だれ」、人間味のある言葉なのに。
ついでに「瑕(きず)に玉」、これも耳にしなくなった。それさえなければ完璧なのに、惜しいことにほんのわずかな欠点があること、それが「玉に瑕」。「瑕」とは宝玉の表面にできた「きず」のこと。「瑕に玉」とひっくり返すと、欠点ばかりの中にもわずかな美点があるという意になる。なんと身近であることか。「玉に瑕」なんてなかなか使えないが、「瑕に玉」なら使い勝手がよさそうだ。
梅雨と言えば、この「横板に雨だれ」だろう。大地はしとしとと降り続く雨をゆっくり吸い込む。こうして大地に蓄えられた豊かな水は、生きとし生けるものの命の水となる。この季節の雨は、ずっとそんな大切な役割を担ってきた。
しかし、近年は「立て板に水」のような雨にひっかきまわされることが多くなった。「立て板に水」のごとく降る雨にも、「立て板に水」のごとくしゃべる人にもご用心。

「雨だれ」というと、ショパンの前奏曲「雨だれ」を思い出す人も多いだろう。しかしこのタイトル、誰かが巧みに想像を巡らせてつけた言わばニックネームで、ショパン自身がつけたものではない。私は梅雨の雨にリストの『ため息』を想う。このタイトルもリスト自身がつけたものではない。
このように、作曲家の意図とは無関係に誰かがつけたニックネームがまかり通っているものが他にもたくさんある。ベートーヴェンの『運命』などもそうだ。誰かが「運命が戸をたたく音」に感じただけで、激しい雷鳴と降りしきる雨音と言われれば、そう聞こえないでもない。「余計なお世話だ」、草葉の陰から作曲家たちの声が聞こえてきそうだ。
タイトルや先入観に縛られず自由に感じれば、音楽はもっと面白くなる。
演奏会用練習曲の一つ『ため息』に流れる甘美なアルペッジョの音は、大地に降り注ぐ慈愛の雨のようでもあり、息を吹き返したものたちの震えるような吐息のようでもある。高鳴る満ち足りた旋律は、やわらかな雨のベールに覆われた大地から湧き上がる悦びの歌…

さて、お気に入りのパリジェンヌの傘もバッグに入れたし、念のため、ベージュに北欧色の水玉模様のレインコート、オリーブグリーンのレインブーツも用意して…
きっと明日は雨だから。